最近の東京の街の変わり様には老人はなかなかついていけない。
確かにその場所にあったはずの建物がいつの間にかなくなって、まるで違う建物に変わっている。
おかしいなあ、此処にあったはずだがと、ま新しいビルの前に立ち止まってながめていると、やたらにスバヤク動き回る若者たちに突き飛ばされそうになる。
老人は突き飛ばされるわけには行かない。突き飛ばされたら、骨折する可能性があるし、少しでも骨折したら寝たきりになるかもしれない。
寝たきりになったら、ボケはますます進むだろう。いや、ボケてなくてもぼけるだろう。
でも今どれだけボケているのか、自分でもわからないのだ。物忘れなんかはともかく、若い頃にはできたつもりの動作でも、昔のそのままの感覚で実行すると、かなりの高率で失敗する。
でも、自転車なんかは昔と同様に平気で乗り回せる。字幕を見なくても、映画の英会話が昔より良くわかる気がする。
ひょっとしたら少しもボケてないのかもしれない。むしろますます冴えてきたのかもしれない・・・・。
秋葉原から歩いて行く
と、いうことで(どういうことだ‼️)
夕刻に浅草橋で始まる飲み会に行くのに、老人は秋葉原から歩いて行くことに決めた。
昔はよく都内を歩き回ったものだ。
池袋から新宿までなんて軽いものだった。
距離にして二里ほど(8キロ弱)も、あったもんだ。
先日も上野から浅草まで歩いたもんだ。
東京駅から門前仲町までだって軽いもんだ。
スマホで、東京駅から門前仲町まで距離徒歩と入れるとすぐに2.8キロと返ってくる。
スマホも便利なものだ。
要するに、時間が余っているのだ。
電車で行けばひと駅で5分だが、まだ2時間半も余ってるのだ。
久しぶりにこの界隈を散策しながら、ゆっくりと浅草橋に向かおうと老人は決めた。
老人はカーナビをスマホでやるのは得意だが、スマホの徒歩ナビはつかえない。
徒歩ナビを使うと、老人は必ず別の場所に行ってしまう。老人は、それをスマホの出来の悪さにした。老人にはよくある傾向だ。
(まだ一分咲きの柳橋の桜 令和6年3月22日)
秋葉原駅東口
間違わないように線路の下の道を歩くことにした。
もちろん、線路は総武線であり、山手線でないのを老人は慎重に確認した。
秋葉原の駅の東口に、老人は立った。
相変わらず、なんでそんなに急ぐのかわからない若者たちが、老人をスレスレにかわしてゆく。
急がないと損するとでも思っているのだろうかと、老人はかんがえる。急ぐくらいなら、早起きして早く出て来いと老人は考える。
でも、自分は早く出て来すぎたと、老人は反省する。
老人はゆっくりと歩き始める。
老人は、この道が「秋葉原駅前南通り」だと言うのをスマホで知る。
外人が多い。歩いている半分が外人に見える。
東洋系の外人を加えたらたら、もっと外人がいるのかもしれない。
千代田区立秋葉原公園
ここだけは時間がゆっくりと流れている気がする。
ここは取り残されたような空間だなと、老人は思う。
公園のベンチでは、男が座ってうつむいていた。
男はタバコを吸っていた。
老人も一緒にタバコを吸おうと思った。
でも千代田区に見つかると2千円取られるのでやめた。
昭和通りを横断したので、方向は間違っていないと老人は思った。
線路のガード下の細い通りに入る。
飲食店が並んでいる。店のガラスに、タバコ吸えますという案内が増えた。
店の案内も英語の店が多くなった。まるで基地の街に来たような気がする。
風景が開けて再び公園があった。
公園の片隅に赤く塗られた小さな神社があった。その神社は、小さいながらもよく清められていて、なかを覗くと新しい榊がそなえられていた。
社の両側には何本もの赤い幟が翻っていた。
赤い幟には白く
「正一位草分稲荷大明神」とある。
老人は、いい年をして、この正一位と大明神がどうつながるのかが全く不明だった。
正一位とか従三位とかって、人の身分をあらわす位階と言うものじゃないのか?
老人は早速スマホをひいた。
なんといっても、老人には十分な時間があるのだ。
昔は引くのは辞書だったが、今はスマホを引くのだった。
よくはわからぬが、神様にも位をつけて良いことになっているらしい。
よくはわからぬが、稲荷大明神様は、位階の最高位である正一位であると言うことだ。
そしてお狐様はあくまで神の使いということで、正一位であるのは、稲荷大明神様だということを老人は知った。
この神田佐久間公園はなかなかの広さがある。
公園の中の看板に「ラジオ体操発祥の地」とある。
柳橋
少し行くともう浅草橋の飲み屋通りである。
まだ四時前だと言うのに、開店している飲み屋がいくつかある。
もう開店してるというのをアピールするには、店の照明は蛍光灯よりやはり白熱電球だと、老人はしみじみ思った。
ここら辺はもう台東区だ。
とりあえず飲み会の店を確認すると当然だが、まだ開店はしていない。
約束の時間まで、まだ1時間以上もある。
老人はさらに東に向かった。
信号があって、女のガードマンが棒を持って、笛を鳴らしていた。よく見ると、タスキに警視庁と書いてあったので、女警官だったようだ。
老人は何か強い力に引き寄せられるように、
さらに東に向かって歩いた。
ほとんど人通りがなくて寂しい場所だ。
吹きくる風も体に冷たい。
隅田川の護岸に突き当たったので、老人は、南に向かって歩く。
すると、川に浮かんだ屋形船が見えてきて、目の前に緑色の橋が見えた。
橋は柳橋、川は神田川だ。
ここで神田川は隅田川に合流するのだなと老人は納得した。
橋のたもとには、佃煮の「小松屋」の看板が見える。小松屋は船宿と屋形船も経営してるのだ。(佃煮の店は、この辺にはいくつかあるらしい。)
神田川と隅田川の合流地点には大きなマンションがあり、その壁には「亀清楼」とある。
老人はすぐにスマホを引いた。
亀清楼は、あの伊藤博文も贔屓にしていた料理屋だと言う。
この柳橋は、1928(昭和3)年には料理屋と待合が合わせて62軒、芸妓が366人という大規模な花街になっていたという。
しかし、1999(平成11)年に最後の料亭が店を閉じ、芸妓組合は解散。柳橋の歴史は幕を閉じたのだった。
その理由には、隅田川の汚染や護岸工事や花火大会の中止やいろいろあったようだが、他の花街のように大衆迎合路線を取らず、あくまで粋の総本家である柳橋の誇りを守ったことによるということである。
柳橋は、最後まで「一見さんお断り」を貫き通した。
かつて、東京には六つの代表的な花街があった。
- 赤坂
- 神楽坂
- 柳橋
- 芳町
- 浅草
- 新橋
これを「東京六花街」という。
現在は、柳橋が廃業して抜けて、向島や大塚や円山町が加わったりしているらしいが、詳細は老人には不明だ。
柳橋は新橋より格上だった
柳橋の花街は、元々深川の芸者たちが、水野忠邦の天保の改革によって職を奪われ、ここに移り住んだのが始まりと言われている。
深川には岡場所があったが、水野によってこれが全面的に取り潰されたのだった。
だから老人は思った。
柳橋芸者は辰巳芸者だ。
辰巳芸者は、芸を磨いて、薄化粧、客に媚びずに勇み肌。
深川の材木商を相手に芸をつうじて、商談を盛り上げる辰巳芸者の気風の良さ。
古い記録には、こうある。
新興の新橋と比べると、柳橋は別格の格上で、宴席で両者が合流した場合には、新橋芸者は柳橋芸者の三尺(9センチ)後ろに座り、三味線も先に柳橋が引き始めてから新橋が続けなければならなかった。
老人は嬉しくなってその光景を瞼に思い浮かべようとしたが、何も浮かばなかった。
老人は深川でも柳橋でも遊んだ事は無いけれど、一度だけ某所の芸者さんのお座敷遊びをおごってもらった事はある。
その時もらった名刺がなぜか男名だと言うのは気になっていたところだが、辰巳の男装、羽織ものと相まって、男名が何かと融通が利くというのを合点した老人だった。
戦艦敷島の斎藤艦長
深川と言えば辰巳だ。
辰巳とは江戸深川近辺をいう
門前仲町駅前には、「辰巳新道」という飲み屋街があって、むかし老人もこの中の店を何軒か回ったことがあった。
そこに婆さんが一人でやってる店があって、婆さんの話には、「戦艦敷島の斎藤艦長」の名がたびたび出てきた。
訳を聞くと、婆さんは「わたし昔ダンサーだったのよ」と言った。
婆さんはセピア色の写真を見せた。
婆さんはさすがに若かった。ほんとうに後を付いていきたくなるような、いい女だった。
写真を見せ終わると婆さんは写真を元の引き出しに大切そうにしまった。
ダンサーといっても、将校クラブのようなところで、社交ダンスのようなダンスの相手をしていたらしい。
まさか鹿鳴館ではあるまいと、老人は指を折って数えてみたが、「戦艦敷島」は日露戦争の船であろう。
若い婆さんは、会場の椅子に座って誘いに来る将校を待つのだそうだ。
皆さん、とても紳士でした、と婆さんは目を細めて言った。
箱根の何とかクラブにも行ったのよと婆さんは嬉しそうに回想した。
婆さんの「舞踏会の手帳」については、尋ねたかどうかも老人は忘れてしまった。
ダンスを断る時は、今疲れてると言えば良いのだそうだ。
その後老人は、何度かその店を訪ねたが、店は閉ったままだった。
しばらくして、またその店を訪ねると、すでに店の看板も無くなっていた。
おっと、線路沿いを歩いているうちに、脱線してしまいました。
また、そのうち。
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