老人が以前から気になっていた場所が近所にあった。田んぼの中に、土が盛られた小山があって広葉樹が繁っている。田んぼの中で、そこだけがどこか格別っぽい場所として残されている。遠くから見ると、その小山はでかい盆栽のようにも見えた。自然にはちょっと考えられない佇まいだった。そんな風景を車から何度も眺めていた老人だったが、ある日意を決してその場所を探索に出掛けた。
古墳の数は全国で160,000基だと云う
日本全国でコンビニがざっと57,000店、歯医者が68,000軒、美容院147,000軒なのに、それよりも日本の古墳は数が多いのだ。なんと古墳の数は全国で160,000基だと云う。
古墳がそんなにいっぱいあるなんて老人は今まで知らなかった。
つくば市には約200基の古墳があると云う。土浦市、かすみがうら市にはあわせて 1,000 基の古墳があるという。
ハリケンラーメン本店を過ぎて、つくばから国道125号に出る道(県道200号)は、桜橋を使って桜川をわたるのだが、この橋からさほど遠くない場所に、その場所はあるのだった。
老人は桜橋の河川敷に車を止めて歩いて現場に向かった。辺りには誰もいない。人だけでなく、犬もカラスもいないのだった。
近づくにつれて盆栽の小山がより鮮明に見えてくる。
その通り、稲荷塚古墳だ!!
果たしてそのとおり、それは古墳だった。(まあ、それは事前にわかっているわけだけど😀)
近づいてくる稲荷塚古墳を前にして、老人の期待は激しく高まってゆく。
ちょいと調べてみると、全国にはこの「稲荷塚」という同名の古墳がたくさんあるのだった。
よって今回のこの古墳は「土浦市田土部:稲荷塚古墳」と表記することにした。
草むらの先に石造りの何かが見えたが、老人は蛇🐍が怖いので近寄れなかったのだった。
塚には、立派な樹と草が茂っていた。
草木が枯れた季節に再びこの地を訪れることを老人は心に誓った。
韓国ラブストーリーのように、老人はこの木の下で何年後かに誰かと待ち合わせの約束をしたいと、ふと思った。
橋のたもとの味な店
老人は再び桜橋に戻った。
橋のたもとに懐かしい店構えが残っていた。しかしこの店はもうやっていない。茂った木叢の中に古い看板が残っていた。
店のキャッチフレーズは確か「味な店」だった。
外見は居酒屋のようだったが、昼時もやっていたので、老人は何度かその店に寄った。
年増の女将がカウンターのなかにいた。
常連の客が店に入ると女将は「おかえり」と言った。
客が店を出る時は「いってらっしゃい」と女将に言われた。出ていく客は皆、身をよじるようにして出て行くのだった。
老人が初めて来て、メニューを見回していると「大丈夫、何でも作るわよ」と言われた。
老人がその店に行く時はいつも二日酔いだったので、かけ蕎麦か何かを作ってもらって食った。
老人は行くたびに、そのうち夜飲みに来るからとか言って、席数とかカラオケ設備とか貸切は可能なのかとか、思わせぶりなことを何かと聞いてたりしたもんだ。
そのうち世間は流行り風邪になり、老人もその店に行くこともなくなった。
そのうち店はいつの間にか、なくなっていた。
桜川を桜橋の上から眺めていると、1匹2匹と亀が浮かび上がってきた。
最近整備された桜川の河川敷。土曜日のせいか数組みの家族がテント張っている。
老人は次の古墳に向かった。老人には時間はいくらでもあるのだった。
栗原愛宕塚古墳
この古墳を老人はすでに何度か訪れている。
前記の稲荷塚古墳からは車で五分の距離だ。
難しいことは老人には分からないが、ここ愛宕塚古墳は直径20m高さ4mほどの丸い円墳に、鳥居が立っていて頂上に祠があり、愛宕神社が祀ってある。
この古墳と神社の組み合わせは老人もよく目にしているが、それ以上のことは不明だ。
すでに朽ち果ててしまっている解説看板も、古墳の一部と化していて、辛うじて十日塚、天神塚古墳の文字が読み取れる。
この天神塚古墳とは、ここ愛宕塚古墳から南東に徒歩15分にある上野天神塚古墳のことだが、老人はまだ探訪していない。
またこの十日塚古墳は、ここ愛宕塚古墳のすぐ近くにあったということだが、「週末は古墳巡り」さんによれば、すでに削平され畑となっているようだとのことだ。
とは言え、老人は暇なので愛宕神社の鳥居から十日塚方面を眺めてみた。
確かに、こんもりとした林が見える。
老人はその林にさらに近づいてみた。しかし、古墳らしい隆起は観察できない。そこで裏に回ってみた。
分からない。やはり十日塚古墳は「削平」されているのか。老人はすぐに諦めた。付近にはこんもりした林ばかりだ。どれもがそれらしく見えるばかりだ。
栗原の慶長板碑(ケイチョウイタビ)
さて、この愛宕塚古墳の隣りに都合よく「慶長板碑」がある。
ここは古墳ではないが、老人は愛宕塚古墳に行くたびに何度か訪れている。何度か訪れているものの、老人にはこの板碑と云うものがいまいち理解できないのだ。
日本全国にこの「慶長板碑」は無数にあるようだ。いったい何のために、この「慶長板碑」は作られたのか?解説を何度読んでも老人にはよく理解できない。再度ここの「慶長板碑」に近寄ってみた。
確かに「奉果日記待七ケ年成就所」と読める。でもそれは老人の嘘だ。無学な老人は解説文を読んでいるだけなのだ。老人には「奉」と「待」が読めただけだ。
そこで老人は「栗原の慶長板碑」の拓本があるという「つくば市桜歴史民俗資料館」に向かった。
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